『ゲッベルスと私』A GERMAN LIFE

 

邦題『ゲッベルスと私』の“私”とは、あなたのことでもあるのです。もし、あなたが彼女の立場だったら、どうしていましたか?

クリスティアン・クレーネスとフロリアン・ヴァイゲンザマー監督のダイアローグ)

 

 真っ黒の背景、痛いくらいの沈黙の中、一人の老婆が映る。

カメラは老婆の深く刻まれた皺を映し出す。呼吸のたびにそれは動き、つばを飲み込む動きをはっきりと捉える。ハリのある白い服は―もっとも画面は徹頭徹尾白黒のため、それは違う色の可能性も大いにあるが―彼女の肌の皺を強調した。

老婆はしゃんと背筋を伸ばし、極めて冷静に、静かに語り始める。ブルンヒルデ・ポムゼル、1911年生まれ、撮影当時103歳の彼女はいかにも上品で知的な印象を与える。その年齢を感じさせるのは皺と、頻繁に口元を拭う小さなハンカチと、語られる彼女の生き様だ。

 

 『ゲッベルスと私』は、ナチス時代を生き、また宣伝相ゲッベルスの下で働いていた一人の女性のインタビューを収録したドキュメンタリー映画だ。

2016年にオーストリアのドキュメンタリープロダクション「ブラックボックスフィルム」による制作で、監督は4人の連名だ。聞き手も彼らが務める。

インタビュアーの声は一切入らず、ポムゼル氏がひたすら話し続ける。合間に、ナチスのプロバガンダやアメリカによる啓発ビデオ等のアーカイヴ映像が効果的に挿入される。

 

 

 

 ポムゼル氏は元々ユダヤ人弁護士の事務所で働いていた。第二次世界大戦の影が忍び寄るころのドイツは豊かではなかった。事務所は事業を縮小し、博士は後々亡命することになる。氏は恋人の知人であるナチ党員の戦争体験を口述筆記したことをきっかけに放送局での働き口をあっせんしてもらうことになり、そのためにナチ党に入党することになった。その流れで宣伝省で働くことになる。政治的なことはわからないし、興味もなかったという。

 彼女にはユダヤ人の友人がいた。エヴァという女性で、なんと入党の手続きをする際に近くまでついてきていたと話す。エヴァは段々貧しくなり、家を追いやられ、いつの間にかいなくなった。ポムゼル氏がエヴァの死を確認したのは終戦から60年経ってからの話だった。

 ユダヤ人の虐殺については「知らなかった」と言う。東方移送と呼ばれ、“ユダヤ人は同じところでまとまって暮らしているのだろう”というくらいの認識だったと話す。5年間のソ連軍による抑留を終えて、初めて虐殺の事実を知ったという。抑留中、温かいシャワーを楽しみにしていたのに、そのシャワー室では残酷な事実が行われていたなんてと少し感情をあらわにする。

 

 ヒトラ―を筆頭としたナチスや、抑圧されたユダヤ人にクローズアップした映画は多く制作されているが、その時代を生きたドイツ人による証言というのは貴重なものではないだろうか。ドイツにとってナチス政権を生んでしまったことは負の記憶であるし、多くを語りたくはないだろう。また、語る価値がないと思う人も多いのではないか。

それはドイツだけの話ではなくて、日本でもそうだろう。戦争被害は語り継がれる。戦争によって抑圧された市民の悲鳴や原爆の悲惨さというのは、薄れながらも確実に残そうとされているだろう。しかし例えば、「私は非国民を弾圧していたんだよ」と孫に語ることができるだろうか。これは極端だが、では「反戦を主張する人がいつの間にかどこかへいなくなっていて、私はただ傍観していたんだよ」ということをわざわざ他者に話すかというと、おそらく口を噤むだろうと思う。

それは言う必要がないと判断されるからだ。歴史的価値のある話でもなければ、誇れる話でもない。

 

 本映画は、ただの記録ではなく、鑑賞した者に多くの問題提起を投げかけるものだと感じた。それは教訓的な言葉にされるわけではなく、自分で読み取るものである。また、多様な感じ方があるのではないかと思う。

 知らなかったのだということに関して、本当は知りたくなかったのではないかという疑義を抱く。視野には入っていたのかもしれない。それでも自分の頭から追い出したのではないか。傍観者でいることが歴史的な過ちを引き起こしてしまうこともありうるのだ。

“私に罪があったとは思わない。ただし、ドイツ国民全員に罪があるとするなら話は別よ。結果的にドイツ国民はあの政府が権力を握ることに加担してしまった。そうしたのは国民全員よ。もちろん私もその一人だわ” 

それでも、彼女を責める気持ちは全く起こらない。一生懸命生きていたのだ。生活をするということはそれだけで大変なことだ。ましてや戦争中なのだから。宣伝省での職務には多くの非課税の手当てがついて、良い給与をもらっていたそうだ。じゃあそれで、ユダヤ人の友人を匿ってあげられなかったの?と他人が言うのは簡単だ。

 

 時代の違いというのは大いにあると思う。ポムゼル氏の子供の頃のしつけは厳しく、従順であることを強要されていたと話していた。想像したのは映画『サウンドオブミュージック』で描かれた軍隊的なしつけだ。

それに比べれば今の時代は自由で多様性にあふれていると思う(少なくともわたしの暮らすこの社会は)。劇中、放送局のアナウンサーが同性愛者だという理由で投獄される。“彼はすごくいい人なのよ”“でも同性愛者だったのよ”―今も同性愛者たちは広く認められているわけではない。それでも、かつてよりは受け入れられるようになってきたに違いない。

しかし、この自由が損なわれる危険性を孕んだ時代でもあると思う。過激派組織や独裁的な政治家の台頭は、かつてのドイツを想起させる。

 

 世の中が変わっていく中で、わたしたちは何ができるだろう。他者が抑圧されているとき、何ができるのだろう。悲しいことに、ほとんどできることはないように感じる。だからといって、見なかったフリをすることはできない。

 

 映画作品としては、もしかしたら単調に感じるかもしれない。ポムゼル氏は淡々と話し、残虐な話もゴシップもない。しかし、一人の女性の歴史、また原題にあるようドイツの歴史であり、重厚なものだった。

 パンフレットも、また本映画の書籍版も購入した。パンフレットは多くの人のオピニオンや、監督のダイアローグが収録されてとても読みごたえがあるので、是非とも鑑賞後に目を通してほしいと思う。

www.sunny-film.com

また、監督来日の際に「インタビューについて」語ったウェブ記事があり、こちらも併せて読むと面白い。上記サイトからもアクセスできるが、リンクを貼っておく。

www.1101.com