アナウンサーになりたかった

それは小学生くらいの頃に抱いていた淡い夢で、実現したいというほどの強い思いではなかった。

「将来はなにになりたいかな?」という問いに対して用意された、便宜上の回答である。質問の都度ころころ変わってしまう流動的な夢だ。


幼稚園児の夢はお花屋さんになりたい、お菓子屋さんになりたい、なんていうのが主流だった。○○くんのお嫁さん、なんてのもあった。それは夢というほどのものではなくて、ただ好きなものを列挙しているに過ぎなかったのではないか。大人になったら働くもので、それならば好きなものに関わりたい、というのが暗黙の了解だったのだろう。

 


アナウンサーになりたかったのは、単純に目立ちたかった、人前に出るのが好きだったからである。要するに承認欲求が強い。朝のニュース番組でハキハキと話すアナウンサーはかっこよく見えた。

その頃のわたしは今と比べるといささか快活で、積極的だったと記憶している。


小学校が途中で廃校になり、廃校記念事業で学校の思い出を作文に書かされた。それが採用されて、筆者として朗読をしてCDに録音したものが配布された。今思うと恥ずかしい。でも実家にある。


放送委員になったのは、記憶の中の放送室は真新しかったから、小学校が合併して新校舎になった5年生の時だと思う。委員は当番制で校内放送をする。給食の時間は決められた企画に沿って、リクエスト曲の放送や絵本の朗読を行う。下校を促す放送もしたかな。すべて定型文通りに読み上げるだけだ。

そう広くない放送室に数名の委員で集まって無駄話をするのが好きだった。特別な人しか入れない、特別な部屋だと感じていた。部活動とは違う、学校の運営に関わっているという使命感すらあった。その頃はもうCDが主流だったけど、たまにカセットテープを使う機会があったので、鉛筆をつっこんで巻き戻しをするのも懐古趣味を味わっているような気持ちになった。


授業中に突然ポルノグラフィティの「メリッサ」が全校放送された事件があった。

昼休みの放送を終えたあと機械の電源を切り忘れたのだ。担当はわたしのクラスで、委員会はクラスの男女1人ずつ。わたしはそういうミスをよくやるので、たぶんわたしが悪かったんだと思う。授業中にも関わらず椅子を蹴って放送室に走ってメリッサを止めたことを思い出す。ものすごく叱られたとは思うけどそういう記憶はない。ただ、授業を抜け出して、大音量のメリッサをBGMに放送室に走るのは特別なことのような気がした。

 


アナウンサーにはなれなかった。なろうともしなかった。4半世紀以上生きた今、わたしのような人間はアナウンサーになれるはずもないということも理解している。"女子アナ"への道は勉強でどうにかなるものではないらしい。


そのあとわたしの夢は弁護士、薬剤師と変わっていった。将来は一人で生きることになると思うから、たくさんお金が稼げる仕事に就きたいという理由だった。そのあと、どちらも勉強が難しいとわかって、口にするのをやめた。弁護士も薬剤師も、今となっては憧れの職業ではなくなった。


高校生にもなると「たぶんわたしなんて大学出たらどっかの企業でつまんない事務員やってんだよ、毎日満員電車に揺られてさ、結局そんなもんだよ」なんて嘯いていたけど、それも叶わなかった。高校生の頃のわたしに会ったら、今のわたしを軽蔑するだろうか。

 


いつからか「話す」のがヘタクソだと気づいて、これってどうすれば上手くなるのかな、と考えている。筋道を立てて、論題に沿った発言をするのって難しい。気づくと発言はとっちらかって、骨子がぼきぼきになっている。自信がないから余計口籠る。今じゃ人前で喋ることを考えただけで心拍数が上がるくらいだ。

そのなかで昔の夢を思い出した。吃音で自意識過剰で頭の回転が遅いのに、アナウンサーなんてとんでもないな。


ただ、賑やかな居酒屋に行ったときだけは少し自信が持てる。なぜか店員さんを呼んだり注文をしたりというのは得意なのだ。